サンドイッチ
今日のお昼休みは家に帰り、母と昼食を食べました。
サンドイッチでした。
レタスと卵サラダとハムとチーズが入ってました。
朝からゆで卵を作っていて、なんだろう?と思ってたのだけど
「今日はどうしてもサンドイッチが食べたかったの」と話す母を見て、なんだか嬉しくなっちゃった。
お母さんにも「どうしても」という日があるのだなぁと、当たり前なのになんだかおかしくて、嬉しかった。
パン屋さんや喫茶店のサンドイッチも大好きだけど、今日食べたサンドイッチは、いつまで食べられるかなぁと、少し切なくなりました。
言うまでもなく最高に美味しくて、その分切なくて、私をそんな気持ちにさせるサンドイッチは母しか作れないんだって、ひと口ひと口黙って食べてました。
私もいつか、私にもいつか、世界一かわいい娘ができたら必ずサンドイッチを作ってあげよう。
母に負けない可愛いお母さんになって、「どうしても」サンドイッチが食べたくなる日を待って、その日が来たら今日の事を必ず思い出そう。
泣きたくなったら泣いてもいいや。
お母さん大好き。
文章をかきます
ブログなんて久しぶりだなぁ〜
新年始まって5日が経ちました。
この5日間だって、嬉しいことも悲しいことも寂しいこともありました。
とても生きてる心地がする。
私なりに生きてるというのは、時間そのものだと思ってます。
人と時間を共有するという事は、命の一部を人にあげてしまうことだと思ってます。
だから人生の贅沢は人間関係の贅沢であって思い出たちは私の生きた全てだなぁと。
じゃぁ思い出されない思い出はどこへ行ってしまうんだろうとも考えた。
私も覚えてなくて、あなたも覚えていないことは、無かったことと同じになってしまう。
生きた時間は確かにそこにあったのに、共有したはずなのに、さらに時間が経つと誰も覚えていないのよ。
人生ほとんどがそうなのかもしれないなぁ。
でも、私が思う結論は、覚えていなくても形を変えて自分のどこかの一部になってる!
そう信じると寂しくなくなった。
信じたくなった。
子どもの頃、大人になっても忘れないと誓った気持ちも、初めてショックな場面を見た瞬間も、大好きなペットと遊んだ思い出も、自分は今世界一幸せだと思った夜も、私は全部は覚えてないけど、体のどこかに刻まれてる。
それが私のまとっている雰囲気の一部になるはずだから、何があっても何歳になっても、なんどもなんども「まだまだ生きたい」と思うんだろうね。
地元に帰ってきてくれた友達にたくさん会いました。
私は幸せだと思いました。